非日常と日常の境界線を見る

3ヶ月前から、絵画教室に通っている。

 

地下1階へと続く急な階段を降りると、ドアがある。ドアノブを傾け全体重をドアに預けて開くと、その先に教室は広がっている。「薔薇」と壁一面に描かれ、カウンターには見知らぬボトルがところ狭しと並べられ照明をキラキラと反射させている。とあるバーを昼だけ貸し切って行われているから、やけにムーディーだ。

 

月2回、デッサンをしている。生徒は私を含めて4人。各々好きなものを描いているが、大体がデッサンなので、紙にザッザッと鉛筆を滑らせる音が響く。誰もが自分の世界に入り込み、互いに干渉し合うことはない。鉛筆の匂いが充満したその空間は、なんとも心地よい。

 

机の上には、濃さの異なる鉛筆と練りゴム。8本もの鉛筆を用意したのも、練りゴムとやらを目にしたのも初めてだ。練りゴムは、デッサンでは必要不可欠なもののようで、普通の消しゴムより柔らかい。ふにふにしている。

 

対象物を前にして、意識を集中させる。紙に鉛筆を滑らせて、白と黒の世界を作り出していく。

 

デッサンを始めたきっかけは非日常を満喫したかったからなのだが、実際まだ満喫できていない。先ほど、対象物を前にして意識を集中させる、と書いたが、そこまで集中できていない。日常の、あの平日の日々を頭の中で思い起こしぐるぐると旋回したままだ。

 

ちょっと前までは、せっかくの非日常を楽しむチャンスなのに、なぜここまで考えてしまうのかと軽い自己嫌悪に陥っていた。が、その自己嫌悪こそもったいないのではないか、と絵画教室の帰りにふと思い、そのことについてそれからはあまり考えないようにした。

 

日常と非日常について考えないようにしても、デッサン中の頭の中は変わらず日常で回っていた。来週はああしよう、とか、あれはこうした方がよかった、とか。

ある時、すごく落ち込んだまま週末を迎えたことがあった。陰鬱な気持ちの中、デッサンを始めた。日常を引きずりまくっていたから、デッサン中ももちろん考えていた。でも、鉛筆を進めるに連れ、思考が前向きになっていくのを感じた。それは、劇的な変化ではなかったけれど、鉛筆を進め紙に白と黒がはっきりとして、紙に対象物が浮かんでゴールが見えたとき、私の思考も微かな光を求め前に進んでいた。そして終わったときは、1つの作品が仕上がったと同時に気持ちが少し軽くなっていた。

 

きっとこれでいいんだ、と思った。たぶん、くっきりと日常と非日常を分けられる他人も世の中にいて、そしてそれがストレス発散になる人もいる。でも私は違った。日常と非日常を区分けできない不器用な人間だった。ずっとずっと考えてしまう。分けることに憧れていたけど、とても出来ない。だから、無理して分ける必要はないんだと思った。分けなくても、気持ちが前に向いたのだからそれで良いのではないか、と思った。

 

休日アクティブにはなりきれなかったけど、今の私はデッサンを始める前よりかは休日を楽しんでいる。始めたことに意味がある。だから、それでいいんだ。そう思って、あのバーのドアを開けている。